2015/07/04

タンルの解釈の傾向を考察する

 タンルはいくらその意味が緩いと言われようと、実際の使用の場をみると、文脈から切り離しても意味が分かるくらいには統一感を以ってその解釈がなされているように思う。

 そこで、あまりに突飛なことをしない範疇で、できる限りその実際の解釈の傾向を法則化してみたいと思う。注意したいのは、これはロジバンの話であるということである!ロジバンの外の現象をロジバンの法則にあまり持ち込みたくないので、できる限りロジバンの中だけで動こうとしている。

 法則は至ってシンプルである。セルタウの項をA1, A2, ... とし、テルタウの項を B1, B2, ... としたとき、ある項 A_n, B_m において、

A_n = B_m

を満たすような解釈がほとんどである。表記上の注意として、これをn=m タイプと書くことにする。また、同じ番号が等しいときをホモタイプ、異なる番号の項が等しいときをヘテロタイプとよぶことにする。

 特によく見られるのが1=1タイプである。 melbi nanmu や kukte plise、 blanu tsani、 barda gerku などがある。例をみても分かるように、この 1=1 タイプはいわゆる「形容詞 名詞」タイプでもある。

 ヘテロタイプの典型例としては gerku zdani がある。これは往々にして、「犬の家」と訳されるだろうから、A_1 = B_2 タイプ、すなわち 1=2 タイプである。「ベビーシッター」を直訳した、 cifnu kurji も同様に 1=2 タイプである。1=2タイプは、PSの傾向として、x2に「~の」や「~を」がくるので、「目的語 動詞」タイプや「所有 名詞」タイプが該当する。 cmana cpare (≒山登りをする)もここに当てはまる。

 あまり見られないと思うが、他のヘテロタイプもある。 karce klama はしばしば「車で行く」となるだろうが、これは 1=5タイプになる。lojbo tavla も恐らく 1=4 タイプだろう。

 さて、この法則は実は原理上のタンルに比べるとかなり束縛した法則である。なぜかというと、タンルは理想的にはセルタウの項とテルタウの項がとある関係Rによって結ばれてさえいればよいからである。しかしながら、ここではとある関係Rとして同一関係(=)を定めてしまっている。この点でこの法則の前提条件は少し厳しい。たとえば、この条件下では

gerku zdani ~ 犬が作った家

という解釈は生起しえないことになる。この記事の焦点は解釈の傾向であり、gerku zdani を「犬が作った家」と解釈する傾向より「犬小屋」と解釈する傾向が強いということを述べるだけにすぎない。よって、もちろん「犬が作った家」も可能性として秘めている。それを認めた上で、「では何と解釈されやすいか」を考えているのがこの記事である。

 ここで、あるタンルがホモタイプかヘテロタイプかを見分ける方法はあるだろうか?恐らく、純粋にロジバン的な答えは用意できない。なぜ、gerku zdani を 1=1(もしくは 2=2)と解釈しないのかという問いに対して、「犬は往々にして家ではないから」としか答えられない。タイプの見極めにまで話を進めることができないのは、この辺りでロジバンの外に出なければならないからである(たとえば、犬や牛の皮を使ってヒトの住まいを作る民族がいたとしよう。彼らにとって gerku zdani はホモタイプである可能性は十分高い)。しかしながら、ごくごくおおよその傾向として、まず我々は(無意識かも分からないが)ホモタイプな読みを試すかもしれない。

 n=m則に加えて、もう一つ、さらに少し強い(しかしごくシンプルな)傾向を加える:

1=m であることが多い

たとえば、これによれば、次の2文のタンルの解釈の違いが説明できる:

do prami ninmu
do se prami ninmu

SE類は述語の項の順番を入れ替えるのみであり、その意味を全く変えない。n=m則において、prami と se prami はまったく同じ項を有しているのだから、傾向に差異は出てこないはずである。しかしながら、実際は出ている。そのための法則が 1=m 則である。

 1=m則が妥当である理由のひとつにPS走査の負担がある。たとえば n=m タイプでは、それぞれ項の数が3つずつの述語からなるタンルだとすれば、9つの可能性がありうる。しかしながら、1=m則の下では、可能性は3つにまで少なくなる。その場で可能な解釈の数を減らすことで、話者・聴者両方の思考の負担を減らせるメリットがある。また、

ko'a broda brode



ko'a FA lo broda ku brode

とロジバンの文法上、非常に簡潔な操作で 1=m タイプの書き下しが可能である点も、1=m則の妥当な根拠の一つになるかもしれない(個人的にはこちらのほうがずっとロジバン的なので、こちらを採用したい)。


 以上では n=m則(1=m則)について話してきたが、実はもう少し拡張せねばならない。例えば次のタンルは n=m 則に当てはまらない:

mi sipna djica / 私は眠りたい

mi が sipna djica それぞれで位置するところを考えてみよう。 mi = djica1 は当然である。 mi = sipna1 もここでは妥当であるが、これを 1=1 とすることは早計だろう。なぜならば、ここでは 1=1タイプであれば正しい書き下し、

mi sipna gi'e djica

は合っておらず、むしろ

mi djica lo nu mi sipna

のほうが正しいからである。一見 1=1 に見えたのは、 djica_1 と、 djica_2 の抽象節内の sipna_1 が等しいからである。このように、n=m則で述べられた「項と項の同一関係」の「項」には抽象節内の項も含まれなければならないように思える。これはかなりややこしい。無理やり書くなら、

sipna djica

B_1 = B_2[A_1]

こうだろうか。しかしながら、次のタンルを考えてみるとこの推察は怪しくなる。

catra minde (ko'a minde fi lo nu .. catra ..)

ここでは、mindeのどの項も、必ず catra のどこかの位置に入るとは限らない(「私は私を殺せと命じた」など、特別な例では当てはまる)。確かに、抽象節内の項も n=m では含まれなければならないかもしれないが、そう考えるよりはむしろ、 セルタウ自体がテルタウの項として働くような場合があるとして処理したほうが理解しやすい。つまり、次のような法則が得られる。

しばしば、いずれかの抽象体(lo su'u broda)がもう一方の項に当てはまりうる

この場合、抽象体となる方を * で表して、

*=m

と表すことができる。たとえば、 sipna djica では *=2 であり、 catra minde では *=3 である。

この解釈が起こりやすい理由のひとつとして、やはりロジバンの文法上、簡易な操作でこの形式に書き下せることがありえそうである。すなわち、

ko'a broda brode

ko'a FA lo NU broda ku brode

と、先ほどと同じくらいシンプルな操作で書き換えが可能であることが理由のひとつかもしれない。

ちなみに、この捉え方では、mi sipna djica の sipna 1 と djica 1 が同一であることまで述べられていない。しかし、*=2タイプで書き換えてみると、これは

mi sipna djica = mi djica lo nu sipna

であり、sipna_1 と djica_1 が同一であるかどうかというのはタンル側の解釈の範疇ではなく、むしろ抽象節側のzo'eの解釈の範疇である。(往々にして、抽象節内の1位のzo'e は本節の1位と同じであることが多いので、ここから sipna_1 = djica_1 が導かれる。しかしながらこれは、抽象節の解釈傾向の話であるので、わざわざタンルの法則に組み込む必要はないだろう。実際、 catra minde でこれが成り立たないのは、minde_3 のとる抽象節のx1は多くの場合 minde_1とは異なるからであり、これはmindeの(つまり抽象節の)解釈の話である。

 n=m則と*=m則のハイブリッドな感じの事例がある。

sutra bajra : 速く走る ~ ko'a sutra lo nu bajra kei gi'e bajra

mutce blanu : とても青い ~ ko'a mutce lo ka blanu kei gi'e blanu

これがさっきと違うのは、x1 は実際に走っていたり、青かったりするところである。つまり、bajra や blanu は抽象体として sutra, mutce の位置に入る一方で、それ自身 x1 に当てはまるのである。これは、

2=* かつ 1=1

として記述できる。短く書くなら、 2,1=*,1 と順序列で書くこともできる。

 これは新しい解釈というよりは、単に複数の解釈が偶然矛盾なく両立しているにすぎない。たとえば、

ra slabu pendo mi / 彼は私の久しい友人だ

では、1=1 であると共に、2=2も成り立っている。このことを、1,2=1,2 と書けば、これは先ほどのものがさして特別なものでないことと感じさせてくれる。実際、多くのlujvoでこのように複数の箇所で連関することはよく起こっている。

 以上をまとめると、タンルの解釈は n=m則(1=m則)と*=m則の2種に分けることができ、しばしばその複合的解釈もなされる。ほとんどのタンルの解釈でこの法則が成り立っていると思う。

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