2013/05/13

Lojban Lessons –3章 (tanru と lo)

Lojban Lessons –3章 (tanru と lo)

 この章では、tanruという概念に慣れ親しんでみようと思います。tanruはひとつのselbriの前にもう一つ、それを修飾するselbriを置くことで作ります。tanruはそれ自体がひとつのselbriであり、他のselbriやtanruとさらに複合tanruを作ることができます。ですから、 zdani vecnu はtanruですし、pelxu zdani vecnu はpelxu zdani というtanruと、一つのbrivla、 vecnuからなっています。[注:brivlaとはselbriとして使える語のことです。品詞については13章でやります。とりあえずは「selbriとして使える語」と考えてください。] tanruの概念を理解するために、「レモンツリー」という言葉について考えてみます。「レモンツリー」が何かは知らないが、レモンとツリーは知っているとします。このとき、レモンツリーが何なのか推論することは実はできません。ひょっとすると、レモン色のツリーかもしれないし、レモンの形をしたツリーかもしれません。もしくはレモンのような味のする樹皮のツリーかもしれません。確かなことは、「レモンツリー」が何らかのツリーであり、何らかの形で「レモンのようである」ということだけです。
上の喩えはtanruの本質を突いています。zdani vecnuが何であるかは正確には分からないのですが、それがvecnuであること、何らかの形でzdaniのようであることだけは確かなのです。理論上は、zdaniとの関係性がいかに馬鹿げて間抜けなものであっても、その関係性は zdani vecnuで表せられるのです。しかし、そのtanruがコミュニケーションで通用するためには、zdani vecnuは一般的な感覚におけるvecnuでなければなりません。zdani vecnu を「家屋販売員」と訳してもいいですし、少しぎこちないですが「家屋型の販売員」と訳してもいいです。tanruの位置構造(sumti位の構造)は、必ず最も右端のselbriと等しくなります。これはつまり、左にあるselbriが右のselbriを修飾するということでもあります。

「ほんとに?」と懐疑的な人もいるはずです。「tanruの左の語との関係性がどんなに馬鹿げていても大丈夫なんて本当なの?それじゃあ、あらゆる販売員のことを『zdaniっぽい』からといってzdani vecnuと呼んでもいいわけ?」と。
答えはイエスです。しかし、そんなことをするのは探偵くらいでしょう。もしくは、意図的に誤解させようとするときぐらいではないでしょうか。一般的に、tanruは、左の語が右の語とどう関係しているかが明らかなときに使うのがいいです。

次の文を訳してみましょう: ti pelxu zdani do

Answer: 「これは君の黄色い家だ。」 実際は何が「黄色」なのかは分かりません。多分、黄色く塗られているのでしょうが、定かではありません。

mi vecnu dunda

Answer: 「私は販売のように与える。」これはどんな意味にとれるでしょう?さっぱりです。dundaの定義によれば、支払いは関与し得ないのですから、何かを売るという意味にはなりそうもありません。それは無料サンプルであり、しかし、ある側面で販売を匂わせるようなものでなければなりません。


さて、ここからはがらっと話題が変わります。「私はドイツ人に売る」はどう言えばいいでしょう?

dotco x1 は ドイツ人/x2という点でドイツ文化を反映している

mi vecnu zo'e dotco とは言えません。ひとつのbridiに2つのselbriを入れるのは禁止されているからです。 mi dotco vecnu とは言えますが、これは意味が曖昧すぎます(私はドイツ風に売る?)。同様に、「私はアメリカ人と友だちだ」と言うときはどうすればいいでしょう?

pendo x1 はx2の友達だ
merko x1 はアメリカ人/x2という点でアメリカ文化を反映している


またもや、mi pendo merko とは言えますが、tanruを形成し、「私は友達のようなアメリカ人だ」となり言いたいことと異なります。どうすればいいかというと、merkoをpendoのsumtiとして使えるように変形するのです。代表的なselbriのsumti化にはloとkuという2つの語を使います。

lo – selbriをsumti化する総称的な開始語。そのsumtiの意味はselbriのx1と等しい。
ku – sumti化を終了させる語。


使い方は簡単です。sumti化したいselbriをこの2つの語で挟むのです。その語句はselbriのx1の意味となります。厳密にいえば、「selbriのx1であるようなもの」です。
たとえば、zdaniのx1を満たせるのは「家であるようなもの」です。ですから、lo zdani ku は「(誰かの)家」を意味します。同様に、あるものがpelxuであると言えば、「それは黄色い」という意味ですから、 lo pelxu ku は「黄色いもの」を指します。

さて、「私はアメリカ人と友だちだ」を言える準備は整いました。どう言えばよいでしょうか?

Answer: mi pendo lo merko ku

kuが必要なのにはちゃんとした理由があります。「ドイツ人はこれを私に売る」を訳してみてください。

Answer: lo dotco ku vecnu ti mi もしkuを省いてしまったら、bridiは形成されず、単に3つのsumtiを羅列するだけになります。lo...kuではbridiは変換できないのですから、tiはそのsumtiの外に放り出され、loが作るsumtiは強制的に閉じられます。よって、その文は3つのsumti、lo dotco vecnu {ku}, ti, mi となってしまうのです。

lo zdani ku pelxu のようなjufraには常に注意しておく必要があります。もしkuが省かれてしまうと、loのsumti化プロセスが続いてしまい、zdani pelxu というtanruがloによってsumti化された、単なる1語のsumtiとなってしまいます。つまり、 lo zdani pelxu {ku} となってしまうのです。

[注: 実は適切な条件下ではkuは省略してもよいのです。このことについては8章でやります。]

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