2013/05/26

Lojban Lessons - 23章 (否定表現)

Lojban Lessons - 23章 (否定表現)

[注:ロジバンは否定をより厳密に定めるため、述語論理の否定¬に基づいています。否定をしっかり理解しようとすると、ロジバンの根底にある述語論理を勉強しなければならないため、この章は少しごまかしながら書いている部分もあります。そのため、よくわからない部分があるかもしれません。]

その文の内容が真実でないことを示したいとき、私たちはよく否定表現を使います。
英語の否定はほとんど「not」に任せっきりで、任意性があり曖昧です[注:日本語も「ない」に任せっきりですね]。私たちは、ロジバニストとして、そんなことしてられません。というわけで、もちろんロジバンにはエレガントかつ非曖昧な否定表現のシステムがあります。ここで紹介するのは公式のゴールド・スタンダードなルールです。naに関する"黄金規則"については反対意見が多くなりつつあり、ルールを改定すべきとの声もあります。ここでは公式ルールに則ることにします。つまり、読者のみなさんにもとりあえずは公式ルールを知ってもらおうと思います。

まず最初は、bridi否定です。そのbridiが真でないという風に否定するからそう呼ばれています。bridiを否定するには、na kuを文の初めに置くか、na をselbriの前に置きます。
speni x1はx2と結婚している/の配偶者、x3(法律/規則/慣習)のもと

というわけで: na ku le mi speni cu ninmu は「私の配偶者は女ではありません」ということを述べています。これは、私の妻が一体何なのかについては何も述べていないし、私に妻がいるのかどうかさえ述べていません。ただ、私には女性であるような妻がいないということを述べています。
[注:もう少ししっかり書くなら、le mi speni cu ninmu というのは、『ある人xがいて、「xは私の妻である」かつ「xは女性である」』という意味になります。文頭のnakuはこれ全体を否定します。
述語論理っぽく書くなら、¬∃x ((xは私の妻)∧(xは女性))ですね。]
これは次の重要なことを含んでいます: bridiの否定が偽ならば、元のbridiは真にちがいない。つまり、例えば、na ku le mi speni cu na ninmu は、私には妻がおり、そしてその人は女であるということを意味するにちがいないということです。
[注:ある文が偽なら、その否定文は真であるような命題を矛盾命題といいます。]

描写sumtiの暗に示されたbridiにさえも、bridi否定を使えます。lo na prenu は人間ではない何か(スフィンクスとか、野球のボールとか、人間でなかったら何でもよい)を参照することができます。

bau sumtcita, bangu由来: {sumti}という言語を使って
se ja'e sumtcita, se jalge由来: {sumti}が原因で

naはbridi全体を否定してしまい、しばしば都合が悪いことがあります。mi na sutra tavla bau le glibau se ja'e le nu mi dotco - 「私はドイツ人であるから英語を速く話す、は真ではない」というのは、否定できる箇所が多すぎて、速く喋るということだけを否定したいというのがはっきりしません。より正確に表現するには、私が早く喋るということを否定しているのであって、他のものは否定していないということを示す必要があります。
bridiの一部だけを否定するために、sumtiが置けるあらゆるところにnakuを置くことができます。そうすると、na kuは後続のあらゆるsumti, selbri, sumtcitaを否定します。selbriの直前に置かれるときは、kuは省略できます。nakuの移動の仕方によっては量化詞に影響があるので注意が必要です。

ロジバンコミュニティの中で、na kuが後続の語句だけを否定するというのに対し、selbriの前に置かれたnaがbridi全体を否定するというのは、非合理的だという意見があります(尤もな意見です)。しかし、この章では公式の見解を学んでいきます。すなわち、selbriの前のnaはbridiを否定するということで話を進めていきます。

次のna kuの使用例を見ていきましょう。
na ku ro remna cu verba 「次のbridiは真ではない:すべての人間は子供だ」
su'o remna na ku cu verba 「少なくとも一人の人間について、次は正しくない: それは子供だ」
na kuがcuの前に置かれています。sumtiはcuの前にしか来れないのですから当然です。もしna単体を使うときは、cuの後に来なければならないでしょう。しかしそれではnaはbridi全体を否定してしまい、「次のbridiは真ではない:少なくとも一人の人間は子供だ」となってしまいます。

na kuを右へ移動すると、あらゆる量化詞が逆転します - たとえば、ro はsu'oに変わります。
これは、もちろん、bridiの意味が保存されなければならない場合に限ります。このことは、na kuがbridiの最後に置かれた場合、selbriだけが否定され、sumtiとsumtcitaはすべてそのままということを意味します。次の3つの同じ意味の例文を見てみましょう:
ckule x1はx2(所)でx3(科目)をx4(聴衆)に教える、x5(者)によって営まれている教育機関/学習施設

na ku ro verba cu ve ckule fo su'o ckule – 「次は偽である:すべての子供が学校の生徒である」
su'o verba cu ve ckule na ku fo su'o ckule – 「少なくとも一人の子供が生徒であることについて、次は偽である:少なくともひとつの学校の生徒である」
su'o verba cu ve ckule fo ro ckule na ku – 「何人かの子供は全ての学校における生徒とは限らない」
[注:分かりやすいように、ハイライトとイタリックを施しました。イタリックはnakuの係る部分、赤いハイライトはnakuが右に動くことによって逆転した量化詞を表しています。]

naの正反対の語がja'aです。ほとんどのbridiにおいてja'aはデフォルトで設定されているので、滅多に使われません。例外は繰り返されるbridiです(次章)。bridiが真であることを強調したいときに時々使われます。例えば、 la .bab. ja'a melbi は「ボブは本当に美しい」となります。

na kuのメカニズムは自然言語の否定に似ているにもかかわらず、否定される対象やそれのbridiに対する影響の仕方について一定の基準を設けるのが難しく、それにより、na kuという構造はbridiの初め以外の場所では滅多に見られません。より限定的な否定表現が必要となるほとんどの場合では、別の手法を使います。段階否定(scalar negation)と呼ばれるこの手法はエレガントかつ直感的なものです。段階否定として使われる語は、seといった語のようにselbriに結合するので、否定の効果をselbriのみに適用することができます。
段階否定という名前は、このselbriに結合する語句が肯定から否定、そして真逆といったある尺度の中にあるという事実に由来しています:

je'a 「本当に」; 段階的な肯定
no'e 「そうでもない」, 段階的な中間点
na'e 「~ではない/ 非」, 段階的な否定
to'e 「~とは反対の/ 反」; 段階的な反対/真逆

これらの語はnaと同じ意味での否定語ではありません。段階否定語はbridiが偽であると述べるのではなく、ある尺度の点ではそのbridiは真であるという積極的な言明 -- そのbridiはselbri以外合っているという言明 -- を発するのです。
この違いはもはや学術的なものではありますが。例えば、mi na'e se nelci 「私は非好かれている」というのは、そのselbri (nelci)の表す尺度(今回は好き~嫌い)のどこかの点におけるものは私に当てはまるということです。
[注:たとえば、nelciに段階否定が用いられると、nelciという目盛りがある物差しが出てきます。つまり、どれくらい好きかという物差しです。好き度 0--1--2--3--…--10みたいな感じですね。段階否定はnelciの目盛り(7とか8とかにあると思います)からみてどのくらい離れているかを表すわけです。]

ほとんどの場合、複数の地点を取り得ないような尺度を想定する(love - like - dislike - hateのような)ので、 mi na'e se nelci は mi na se nelci を暗に意味しています。
それゆえ、no'eとto'eは、そのselbriがいくらか明白な尺度に位置するときにのみ使われるべきです:
le mi speni cu to'e melbi - 「私の配偶者は醜い」 は、美の反対が何であるか即座に分かりますから、意味をなします。一方で、
mi klama le mi to'e zdani - 「私は私の反家に行く」は、文法的に正しいものの、話者が何を意図して"反家"と言ったのかの推測を聞き手に丸投げしていますから、避けるべきです。

では、ある尺度の他の地点においてそのselbriは正しいと示唆することなく、単にselbriのみを否定するにはどうすればいいでしょう? 簡単ですね: na kuをbridiの右端にもってこればよいのです。nakuのこの性質はとても有用です。ロジバニストの中には、selbriの語頭にnaのrafsi、narをくっつけるのを好むのもいます。これは同じ効果がありますが、ひとつアドバイスしておくと、brivlaを見慣れないものにしてしまうので、日常会話では理解しづらくなります。

selbriだけを否定する必要が出てきたが、bridiの最後になる前に否定であることを言いたいときは、試験的cmavo、na'ei (文法的にはna'eと同じように働く)が使えます。
na'ei: 直後のselbriのみを否定

次の文を訳してみましょう:
「私の配偶者は女ではない」(男だという意味)

Answer: le mi speni cu na'e / to'e ninmu  段階否定を使えば、配偶者は存在しているということを示唆し、naを使えば、それすら示唆しません。

「私の配偶者は本当の女というわけではありません」

Answer: le mi speni cu no'e ninmu ここでの尺度は女性から男まで、と推定されます。

「私はドイツ人だから、英語を速く話しません」

Answer: mi na'e sutra tavla bau le glibau se ja'e le nu mi dotco

ついでに、tanruにこういった語を結合するときはいつでも一番左端のselbriにのみ係るということに注意して下さい。tanru全体や、tanruの一部に結合させたいときは、通常のtanruをくくる語を使います。

「私は黄色の家ではないものを売る」を、pelxu zdani vecnuというtanruを使って言ってみましょう。

Answer: mi na'e ke pelxu zdani ke'e vecnu または mi na'e pelxu bo zdani vecnu

「アメリカの王は太っているか?」という質問に答えようとしましょう。これは段階否定ではすべて失敗に終わります。専門的なことを言えば、naを使って否定するのが正しい一方、何が真かを一切示唆しないので、聞き手にアメリカの王がいると誤解させるかもしれません。こういった場合には、メタ言語的否定 na'iがあります。
na'i : メタ言語的否定。「真理値をそのbridiに割り当てることに問題がある。」
na'i には自由文法(心態詞と同じ文法)が与えられています。これはつまり、na'iはどこにでも現れることができ、直前の語や構造に係るということです。

palci x1はx2(基準)において悪質/非道/堕落的
le na'i pu te zukte be fi le skami cu palci – 「そのコンピュータが探し求めていた目的{誤り!}は悪質だった」
おそらく、この文はコンピュータが意志を持ってゴールを探し求めることに異議を唱えているのでしょう。
[注: 結局、「アメリカの王は太っているか?」の答えの例としては、「le na'i merko noltrunau」があるでしょう。つまり、「アメリカの王様というのがおかしい」と答えるのです。]

これは否定についての章ですから、naiについて少し触れておくべきかと思います。これは小規模の文法構造を否定するのに使われ、心態詞、テンスを含むすべてのsumtcita、呼応系、論理接続詞に使えます。naiを用いた否定の規則は、構造ごとによって違い、naiの効果はその構造それぞれについて触れるときに説明したいと思います。例外はsumtcitaで、sumtcitaの否定規則はより複雑で、このテキストでは扱わないつもりです。

Note: これを書いている時期には、naiをselma'o CAIに移動させることが提案されています。これは、naiの意味論がnaiがどのselma'oに続くかに依存しているということを意味しています。

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