2015/08/07

ロジバンのアスペクト観 - xa'o を 『論理的に』 再定義する

タイトルの「論理的に」は皮肉です。

ロジバンのアスペクト観(独自考察)をまとめておきます。

ロジバンの最も基本となる事象線は次の5相からなると考えられます:



これは(少しズレますが)いわゆる「活動(activity)」「状態(state)」と相性のいい相体系です。
atelic な事象ですね。目的のない(達成したい状態がない)事象は大体これです。

さて、mo'u と za'o というのは、端的に言って、別の事象線との相対的な関係によって定まる相です。
別の事象線というのは、目的の(達成すべき)事象の事象線です。

この関係を示しているであろうのが zukte です:

x1 は x2 (行動内容)を x3 (目的/目標)のために行為/実行する

lo se zukte を行うことで、lo te zukte を成就しようとするわけです。
ここで、中心となる事象線を selzu'e線、目的の事象の事象線を terzu'e線 と呼ぶことにします。


selzu'e線の構造はほとんど全くさっきの基本事象線であることに注意してください。
これに対してterzu'e線が平行しているところがさっきと違うところです。
terzu'e線の構造も基本線ですが、もっぱらフォーカスは前半部分に当てられます。

このterzu'e線が平行しているときに、「何かを達成する」という観点が生じます。
「何かを達成する」とは、ある状態を成就するということで、terzu'e線の事象を開始させるということです。

ですので、terzu'e線の構造でいうところの co'a 点に対応するところが mo'u 点になりえます。
ふつうは、ある状態を成就するために行動していたのですから、ある状態が成就してしまえば、行動は止まります。しかしながら、selzu'e線とterzu'e線は半ば独立していますから、mo'u点に延続してselzu'e線のca'o部を維持することは不可能ではありません。この mo'u と正味の終了点 co'u の間が za'o です。

mo'u と za'o は terzu'e線と関連することで初めて出てくる観点であることに注意してください。

それから、もちろん、mo'u と co'u が同一点であることがしばしばあります。つまり、za'o段階が無いわけですが、さっきも言ったように、ふつうは成就してしまえば行動を止めるはずですから、za'o の段階はふつうそんなに生じません。すなわち、大体において、mo'u と co'u は同一点です。

さて、これを踏まえて、xa'o を『論理的に』再定義してみたいと思います。xa'o の現行の意味としては「自然な開始時点(natural beginning point)より前に開始してしまっている」「早すぎるスタートだ」くらいで、いうなれば「フライング」を意味します。辞書的には、xa'o は za'o の正反対として定義されています。この「自然な開始時点」というのを上手く定義してやろうというのが今回の目標です。

少し(かなり)視点をがらっと変えてみます。

natural な point というのは、「2状態間の遷移点を、中心事象に結びつけた」ものです。natural end point でいうと、非terzu'eからterzu'eへの状態遷移の点(さっきまでは terzu'e の co'a点と言っていたもの)を、中心事象と結びつけたものが mo'u に他ならなかったわけです。ではなぜこれが "end" なのかといえば、それはもっぱら、大体その遷移点を以って中心事象は終わりを迎える(ことが多い)からです。つまり、その遷移点が中心事象に対して終了志向をもっているわけです。

じゃあ、これを beginning にそのままもってくるとどうなるかというと、「開始志向の2状態間の遷移点を、中心事象に結びつける」、すなわち、ある状態Aからある状態Bへの状態遷移点が、それを以って中心事象が大体始められるようなものである、ということになります。図を見たほうが早いですね。


mo'u の点が、ある2状態間遷移点であり、中心事象をしばしば終わらせる点であることと対応して、natural beginning pointも、何らかの2状態間遷移点であり、中心事象をしばしば始める点であると定義できます。そうしたときに、xa'o は co'a と natural beginning point の間の段階としてかなり素直に定義できます。これは「開始志向をもつ遷移点に対応する点に先立って既にそうである」ということを表しており、まさに現行の「フライング」の意味です。

mo'u とパラレルであることを示すために、natural end point のほうも書きなおしてみます:


結局、俯瞰図としては次のようなものが得られます:


他の状態間遷移と相対的に定められる相として、mo'u, xa'o, za'o を統一的に定義することができました。個人的にはこれが一番しっくり来ます。

形式上はかなり対称性があってキレイですが、捉え方に少し注意が必要です。natural end point では、中心事象によって状態間遷移が起こると普通は捉えます。しかしながら、natural beginning point ではその逆で、状態間遷移が起こることによって中心事象が起こると捉えられることが多いわけです。大雑把にいえば、因果が逆なわけです。でも、この因果関係の逆転は、beginning と end が対であることと関係があるかもしれません。

いずれにせよ、この「開始/終了と関連する傾向のある状態遷移点」というのはかなり抽象的に収まってくれており、mo'u の使い方をより一層豊かにしてくれるかもしれません。この見方では、いわゆる「完了」というのは「目的」だけでなく「目処」によっても生じることができます。つまり、進捗が上がらなくても、完了しうるわけです。たとえば、「15時まで正座をする」とき、正座をすることそれ自体が時間を進めるわけではありません。しかしながら、その事象になんらかの目処があることを想定していれば、それは完了することができるわけです。「映画が終わるまで席を立たないでいる」のほうが分かりやすいかもしれません。このとき、「席を立たないでいる」ことそれ自体は「映画の進展」に影響しません。もし、「マラソンを完走するために走る」というような構造をこの退屈な映画鑑賞に適用するとすれば、たとえば、座椅子がボタンになっていて、そこに人が座っていないと映画が止まってしまうような状況が考えられます。このときは、座り続けることがそのまま映画の進展に影響するわけですから、事象の様子が少し異なっていることが分かるかと思います。

この観点の優秀なところは、状態の維持もまた完了することができる点にあると思います。ロジバンでは、実際のところ、活動と状態(動的事象と静的事象)を文法的に区別しませんから、このような見方は非常に心強いかと思われます。

最初は「目的事象線の存在がmo'uを生起させうる」と言っていましたが、それをより一般化して、中心事象に平行した(終了志向の)2状態遷移が意識されていることが mo'u には重要であるということになりました。


最後に、少し話はそれますが、まともな相の訳語を考えたので載せておきます:

・ pu'o : 将然・未然相
・ xa'o : 早発相
・ co'a : 開始相
・ ca'o : 継続相
・ mo'u : 達成相
・ za'o : 延続相
・ co'u : 終了相
・ ba'o : 已然相

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