2015/08/15

味噌煮込みアスペクト論(追記その1)

http://misonikomilojban.blogspot.jp/2015/08/xao.html の追記。

以前はこのようなアスペクト図を提案した。
このアスペクト観では事象は2つある:当該文が焦点を当てている中心事象と、natural point を創出するための背景事象(図のState A, B, C, Dが該当)である。

natural point は、背景事象の切り替わりによって中心事象に生じるものである。背景事象の切り替わり後の状態(遷移後状態)はふつう、強弱はあれど、中心事象を終わらせる(始めさせる)傾向をもつ。"end" や "beginning" はそのことを意味している。

一般に、ある事が完了するためには、何かが変わらなければならない。その何かこそが背景事象である。このとき、背景事象の遷移後状態とはほとんどの場合で「中心事象の目的である状態」である。しかしながら、ロジバンではより一般的に背景事象を考えることができる。つまり、背景事象は遷移後状態が必ずしも目的である必要はない。重要なのは、中心事象の他に、それと並行するような事象を想定しているかどうかである。たとえば、{co'u sipna} と {mo'u sipna}では、前者は単に「座り」が終わったことを意味しているが、後者では「座り」の他にそれと関連するような(そして「座り」を終わらせるような)状態が始まったことを意味する。

以上が、この前の記事で書いたことである。以下はもう少し網羅度を埋めるための話をする。

さきほどの図では、co'u点はmo'u点より後にあった(そのために、za'o線があった)。ではその順序が逆であるような場合はどうなるであろう?
この図はまさにそのような図である。mo'u点とco'u点の間の範囲はどのような表現で表されるだろうか(もちろん、順序が逆であるならば、za'oで表される)。このスキームでは、背景事象の2状態遷移が起こる前に中心事象が終わってしまったことを意味している。

まず、このスキームが成り立つには、中心事象の進展が背景事象の進展と独立していなければならない。たとえば、「マラソンを走る」とき、途中で棄権してしまえば、その時点で完走が起こることはありえない。これは、「走る」ことが「マラソンの完走」の実現と直結しているからである。一方で、「映画が終わるまで座っている」とき、「座り」をやめても、映画は流れ続け、やがて終わるはずである。このように、中心事象と背景事象が独立である場合に上のスキームは成り立ちうる。今の例でいえば、映画が終わるまでに痺れを切らして座るのをやめてしまったのである。

ここの「???」にあたる部分は、{ba'o}で表すのが筋である。つまり、{ba'o}には基本事象線の{co'u}の後という基本的な意味と、{mo'u}とそれより早い{co'u}の間の範囲という背景事象と関連する意味があることになる。このことはこれまでの{ba'o}の用法となんら矛盾はせず、むしろ「既に~してしまっている」というニュアンスの1つとして使われている意味である。「映画が終わる前に、既に座るのをやめてしまっている」の「既に」である。ここでは、遷移後状態になれば終わるはずだということの裏返しの期待として、遷移前状態の間は終わらないはずだという気持ちが隠れている。「失敗のba'o」とでも言えそうである。

一般に、背景事象を引き合いに出して中心事象のアスペクトを述べるとき、なんらかの「裏切られ」を話者が感じていることになる。つまり、「背景事象の状態が然々であるのにも拘らず、中心事象が終わらない(始まらない)」という、中心事象が期待はずれの挙動をしていることに対するギャップへの態度である。もしこの態度が無いのであれば、xa'o と za'o の範囲は中心事象のみで、つまり ca'o によって語られるはずである。

同様に、"opposite" な {xa'o} と {co'a} についても考えてみる。


natural beginning point がさっきとは異なり、co'a よりも早く登場しているスキームである。

これは実はさっきよりも素直に考えることができて、「中心事象を始めさせる傾向をもつ遷移後状態になってもまだ中心事象が始まっていない」という状況を表している。これも先ほどと対照してみれば、{pu'o}を使うのが筋であり、{ba'o}と同様、{pu'o}には基本事象線の{co'a}の前という基本的な意味と、"natural beginning point" とそれより遅い {co'a}の間の範囲という背景事象と関連する意味があることになる。「遅延のpu'o」とでも言えばいいかもしれない。

mo'u と natural beginning point は対照的である。が、xa'o と za'o も対照的であるかどうは一考の価値がある。なぜなら、そのような意味での pu'o と  ba'o がいるからである。

「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもつにも拘らず、中心事象はそのよう(開始/終了)でない」 という状況を表しているのは、pu'o と za'o である。一方で、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもち、それゆえ、逆に遷移前状態ではそう(開始/終了)でない傾向があるにも拘らず、中心事象はその(開始/終了)ようである」という状況を表しているのは xa'o と ba'o である。

そのため、pu'o や za'o では「まだ」という副詞が、 xa'o や ba'o では「既に」「もう」という副詞が使われる。この点でも、それぞれでの共通点が見える。

この共通点のことを念頭において、もう少し探ってみる。


この図では broda な中心事象と na broda な中心事象の2本の中心事象線を引いている。これらは排他的な関係であり、一方が真/偽のときもう一方はそうでない事象であるとする。

このとき、少し面白いことがおこる。 natural point と 中心事象のON/OFF点の間の範囲を見てみると、{broda}な事象ではそれは za'o であり、{na broda}な事象ではそれは pu'o である。両方とも訳すときに「まだ」を使っているのは、za'o と pu'o が、中心事象のON/OFFの構造の違いにすぎないからなのだろう。もちろん、xa'o と ba'o でも同じである。

つまり、次のような等式が類推できる:

za'o broda = pu'o na broda ・・・ ①
xa'o broda = ba'o na broda ・・・ ②

ちなみに、基本事象線上の ba'o と pu'o の意味を使うと、次のような等式もえられる:

za'o broda = na ba'o broda ・・・ ③
xa'o broda = na pu'o broda ・・・ ④

①と②で broda を na broda に置き換えると、

za'o na broda = pu'o broda ・・・ ①’
xa'o na broda = ba'o broda ・・・ ②’

①’、②’の右辺をそれぞれ④、③の右辺に代入すれば、

za'o broda = na xa'o na broda
xa'o broda = na za'o na broda

が得られる。この等式は
https://groups.google.com/forum/#!msg/lojban/anpbQH1pFHw/jkP7B5hEFeMJ
において、la xorxes が述べているものと一致している。

ちなみに、この等式自体は、味噌煮込みアスペクト論でなくても導くことができる。味噌煮込み論が提唱しているのは、"natural point" の起源(すなわち、背景事象)である。味噌煮込み論は今までのアスペクトを破壊するものではなく、今までのアスペクト体系の基盤を(理論によって裏付けられた)確固たるものにするためのものである。

先ほど述べた、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもつにも拘らず、中心事象はそのよう(開始/終了)でない」 という状況と、「中心事象に対して遷移後状態は然々の(開始/終了)作用の傾向をもち、それゆえ、逆に遷移前状態ではそう(開始/終了)でない傾向があるにも拘らず、中心事象はその(開始/終了)ようである」という状況の2つ、そしてこの2つであることだけが 「まだ」 "yet" と 「既に」 "already" の意味ではなかろうか。つまり、日本語では「裏切られ」の態度の種類としてこの2つが、中心事象の構造と関係なく捉えられているのではないだろうか。「そうあるべきところでそうでない」という裏切られ(yetな裏切られ)と、「そうあるべきでないところでそうである」という裏切られ(alreadyな裏切られ)の2つがあるのだろう。


最後に、 "natural beginning point" について追記しておく。ロジバンでは "natural end point" には {mo'u} が割り当てられているが、 "natural beginning point" には相当する語句がない。私は試験的cmavoとして暫定的に{xo'u}を割り当てたが、案の定、現在の理論基盤のない状況ではコメントとして「それは{co'a}と何が違うのか」というものしか得られなかった。味噌煮込み論では、{xo'u}はどのような状況を表すのか(そして、より重要なのが「どのように訳せるのか」)を見てみたい。

とはいえ、上のスキームを見れば、想定される状況の把握は容易である。mo'u点が、背景事象の終了志向の遷移後状態への遷移を表しているのだから、xo'u点は、背景事象の開始志向の遷移後状態への遷移を表している。mo'u点は「終わるべき点」なのだから、xo'u点は「始まるべき点」である。つまり、「(ある状態変化によって)中心事象が始まるべきときがきた」というのが {xo'u} の意味するところである。実際、mo'u点も「中心事象が終わるべきときがきた」と訳すのが最も一般的で良いはずであるが、実際には co'u点とmo'u点が一致しているような物言い(「~し終える」)が主流である。英語でいえば "It's time for XXX to end/start" とかだろうか。

「もう行かなくては」という表現はふつう {ei mi cliva} を使うだろうが、これを {mi xo'u cliva} としてもいいという話。

実はこの{ei}を使う文と xo'u や mo'u を使う文というのは結構互換が効く。

ei do sipna / 君は寝なければならない。
do xo'u sipna / 君が眠るのを始めるべきときがきた。
do mo'u cikna (=na sipna) / 君が起きるのを終えるべきときがきた。

xo'u broda = mo'u na broda であることに注意。

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mo'u や za'o, xa'o, xo'u といった、背景事象を伴うアスペクトのことを相対的アスペクトと呼べば、それに pu'o や ba'o も含まれるだろう、というのが今回の話。もちろん、pu'o、ba'o には絶対的アスペクト(基本事象線のアスペクトのこと)的意味もある。

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